博多の海風が、夜の筥崎(はこざき)をかすめる。松明(たいまつ)の火が揺れ、社殿の柱に長い影を落とした。九州平定の余熱が残る天正十五年六月十九日、豊臣秀吉は静かに口を開く。
「伴天連(ばてれん)ども、二十日のうちに立ち去れ」。
寛容から統制へ——政権の呼吸が切り替わる決定は、宗教だけの話ではなかった。
通商、領主権、人身(じんしん)売買、対外関係。複数の利害が絡む中で、秀吉は“線引き”の政治を選ぶ。
バテレン追放令とは何か(五か条と十一か条の実像)
二十日退去と通商容認——条文の骨子
現存する伝本の異同はあるが、核心は次の通りで整理できる。
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宣教師(バテレン)の二十日以内退去命令
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大名の改宗・領内強制改宗の禁止
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寺社破却の停止(日本は神国(しんこく)であるとの理念)
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南蛮船との通商は容認(交易は維持)
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人身売買(奴隷化)を禁圧する含意
しばしば前日の「十一か条覚書」と併読され、全体を“追放令”と総称する整理が一般的である。
大名改宗の禁止と「神国(しんこく)」の論理
条文には、日本は神々の加護を受ける神国であり、寺社破壊や強圧的な布教は秩序を損なうという世界観がにじむ。
ここでのポイントは、宗教の全否定ではなく、「政治の外側からの越権」を抑える趣旨が前面に出ていることだ。秀吉は交易の利は確保しつつ、権力の芯(しん)に食い込む行為を禁じた。
背景|長崎の支配転換と南蛮貿易
寄進から没収へ——長崎・茂木・浦上の直轄化
大村純忠の寄進により、長崎はイエズス会の強固な拠点となった。だが九州平定後、秀吉は長崎・茂木・浦上を没収し直轄(ちょっかつ)化。港の利は国家が握り、布教勢力の政治的特権はそぎ落とすという、宗教と通商の線引きを図った。
ガスパル・コエリョと政治介入への警戒
副管区長ガスパル・コエリョは、対外関係や軍事的示唆を伴う振る舞いで秀吉の警戒を招いた。宗教組織の“政治化”、キリシタン大名連携による権威の二重化は、統一政権にとって見過ごせない兆候だった。
影響|サン=フェリペ号事件から二十六聖人へ
追放令直後、現場の運用は揺らいだ。通訳や仲介として宣教師を用いる例も残る。しかし1596年のサン=フェリペ号事件を機に緊張は跳ね上がり、1597年の二十六聖人処刑で禁圧は可視化される。
最終的には徳川の1614年全国禁教令で制度的に確定し、江戸期の「隠れキリシタン」史へと接続していく。
論争点|対象範囲・奴隷売買の規模・動機の比重
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五か条か、十一か条か:伝本ごとの配列・語句に差があり、六月十九日の五か条禁制を中核としつつ、前日の十一か条を併読する見解が有力。
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対象は宣教師限定か:条文の主眼はバテレン退去と改宗統制で、庶民信仰への一律弾圧は直後には限定的。地域差が大きい。
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奴隷売買の実態:存在は多くの史料で確認されるが、規模推計(数の大きさ)には振れ幅がある。
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動機の比重:神国思想などの理念と、長崎支配・通商管理などの実利——複合要因説が主流。
学び|線引きの政治と運用の一貫性
秀吉の決断は、「全部禁じる」でも「全部許す」でもない選択的統制だった。ここから導ける現代的示唆は二つある。
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相互依存のマネジメント
外部パートナーに依存するほど、任せる領域/任せない領域の線引きが重要になる。データ主権・価格決定・ブランド資産など、不可侵の中核を明文化することで、関係は安定する。 -
建前と運用の一本化
追放令後の現場では、通商上の便を理由に柔軟運用が残った。方針と実務の乖離は信頼を削る。規程の改訂、適用基準の公開、説明責任のプロセス化で、運用の一貫性を確保したい。
今日から実践できるチェックリスト
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書き出す:自組織の「任せない領域」を3項目、紙に明記する(例:顧客データ、価格、広報メッセージ)。
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整える:方針→運用の間で矛盾が出やすい業務を2つ選び、今週中に手順書を更新する。小さな線引きの明文化が、大きな炎上を未然に防ぐ。
FAQ(いつ・どこで・何を禁じたか・その後)
Q. いつ・どこで出された?
A. 天正十五年六月十九日(1587年7月24日)、筑前・筥崎での発布が通説。
Q. 何を禁じ、何を許した?
A. 宣教師の退去と改宗の統制を命じつつ、南蛮貿易(通商)は容認。宗教の政治介入を抑え、交易の利は確保する構図。
Q. すぐに全面禁教になったの?
A. 直後は運用に揺れがあり、1596–97年に弾圧が強化。最終的な全国禁教は1614年の徳川禁教令による。
Q. 長崎にはどんな影響があった?
A. イエズス会の特権化を解消し、長崎・茂木・浦上を直轄化。以後、通商の主導権は政権が握った。
——歴史は、価値と利益のはざまで「どこに線を引くか」を教える鏡だ。筥崎の夜風が運んだその問いを、次の読者へシェアでつないでほしい。
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