鳥取城の兵糧攻めとは(概要・年・場所)
1581年の因幡攻めと「飢え殺し」の意味
天正9年(1581)、羽柴秀吉は織田信長の命を受けて因幡・鳥取城を包囲した。
守将は毛利方の吉川経家(きっかわつねいえ)。
城を攻めるのではなく兵糧を断つ戦術を徹底したため、この戦いは「鳥取の飢え殺し」と呼ばれる。飢餓に追い込まれた経家は城兵と民の助命を条件に降伏、自刃した。
期間は何カ月?一次史料と公的資料の幅
約3〜4か月説と約5か月説の根拠
史料によって差があり、公的資料や『信長公記』などでは約3〜4か月、百科事典系では約5か月とされる。籠城人口は兵と民を合わせて4,000人規模と推定され、短期間で飢餓に陥ったことがわかる。
戦術の核心:補給遮断と付城(陣城)
太閤ヶ平(たいこうがなる)の役割と遺構
秀吉は鳥取城周囲に多数の付城(つけじろ)を築き、補給を完全に遮断。鹿野方面は織田方亀井茲矩が封鎖し、海路も妨害された。
とりわけ重要なのが城東の太閤ヶ平(たいこうがなる)。大規模な土塁・空堀の陣城で、信長自身の出馬を前提に築かれた可能性がある。発掘調査では防衛線の延長が以前の推定より長いことも分かっており、戦国期の最先端の陣構えであった。
守将・吉川経家の決断:降伏条件と自刃
助命嘆願と開城、その後の因幡統治
包囲が長引き、城内では母が子に粥(かゆ)を分け合うほどの窮状に陥った。救援は望めず、冬が迫る中で経家は「兵と民の命を救う」決断を下す。10月下旬、助命を条件に降伏し、自らは短刀で果てた。
この降伏により因幡は織田方に組み込まれ、中国攻めの重要拠点となった。
黒田官兵衛の関与は?異説・論争点を整理
買い占め工作の史料性と注意点
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米の高値買い占め説:秀吉が周辺の米を高値で買い占め、城に流入する食料を枯渇させたという逸話は軍記物に基づく。一次史料には明確な記録がなく、実態は未確定。
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黒田官兵衛の従軍:後世の物語や大河ドラマに登場するが、一次史料では確認できず。
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包囲線の規模:付城の数は70余とも言われ、空堀延長は最新調査で約1000mと見直された。研究は進行中である。
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惨状の描写:人肉食いなど極端な記録は軍記類に多く、誇張の可能性もある。ただし飢餓の惨状そのものは複数史料が一致して伝えている。
よくある質問(期間・人数・見学ポイント)
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Q. 兵糧攻めはいつ・どのくらい続いた?
A. 1581年夏〜秋。3〜5か月とされる。 -
Q. 籠城人数は?
A. 兵と民を合わせ約4,000人規模(推定)。 -
Q. 太閤ヶ平とは?
A. 秀吉方の本陣陣城。土塁や空堀が残り、信長の出馬計画の一端とされる。 -
Q. 黒田官兵衛の関与は?
A. 一次史料には乏しく、後世の物語的脚色が多い。
ここから学べること
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ボトルネックを突く発想
秀吉は「城壁」ではなく「補給線」を攻めた。現代でも、成果を阻むボトルネックを特定し、そこに集中投資することが成果につながる。 -
成果と倫理の両立
効率を優先しすぎれば人を疲弊させる。経家の決断が示すのは「人命を守るための妥協」だ。現代の仕事や組織でも、成果と人への配慮を両立させることが持続可能な成功を生む。
今日から実践できるチェックリスト
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可視化する:在庫・人員・資金など、自分の「補給線」を特定し、1つ対策を実行する。
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線を決める:効率追求の中でも越えてはいけない「倫理のレッドライン」を明文化し、関係者と共有する。
まとめ
鳥取城の兵糧攻めは、武力ではなく補給遮断によって戦を制した戦略の典型である。同時に、人が生きる尊さを突きつける悲劇でもあった。吉川経家の自刃は、敗者の責任を超えた「命を残すための選択」として後世に刻まれている。
私たちが学ぶべきは、結果だけでなく過程の倫理を問う姿勢だ。成果と人への配慮、その両輪が噛み合ったとき、未来はより豊かになる。
勝ち筋は正面にはない。人を守りながら結果を出す
——その難しさと希望を、鳥取の山風はいまも伝えている。
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