山肌から硫黄の香りが立ちのぼる。湯気の切れ目に、肩口を包帯で固めた男が笑い、女が「大丈夫」と目で返す。
慶応(けいおう)二年(1866)。霧島(きりしま)の谷あい、塩浸温泉(しおひたしおんせん)。寺田屋の襲撃で負傷した坂本龍馬と、その命を救った妻・お龍が、湯に浸かり、高千穂峰(たかちほのみね)を仰いだ
――のちに「日本初の新婚旅行」と語られる旅の核は、ここにある。
霧島の新婚旅行:塩浸温泉18日と高千穂峰登山の一次証拠
乙女宛の絵入り書状でわかる旅の実像(京都国立博物館所蔵)
龍馬は、姉・乙女に宛てた慶応二年十二月四日付の手紙で、霧島行の様子を絵図つきで報告している。谷川での釣り、射撃の遊び、霧島神宮参拝、高千穂峰登山――素朴な筆致(ひっち)が、夫婦の動線と心持ちを生々しく伝える。
手紙は現在、京都国立博物館に収蔵され、当時の行動と情景を示す一次史料として信頼されている。
塩浸温泉(しおひたし)に長逗留:湯治と遊興の具体描写
公的案内と現地資料により、二人が塩浸温泉に18日間滞在したことが知られる。湯治(とうじ)を主目的にしながら、周辺を散策し、快復の手応えを確かめるように山へ向かった。寺田屋の負傷箇所に温泉の湯が沁(し)み、顔をしかめる龍馬に、お龍が湯桶(ゆおけ)を差し出す――そんな光景を想像させる短い描写が手紙に点在する。
「日本初の新婚旅行」か:用語史と先行例の比較
明治の言説・小説が広めたハネムーン像
龍馬が自らこの旅を「新婚旅行」と呼んだ確証はない。近代以降のメディアや観光言説が、夫婦での湯治と登山を「ハネムーン」の物語へ組み替え、広めていった。新聞・伝記小説・観光パンフレットの積み重ねが、「日本初」という標語を強化した経緯が指摘されている。
梁川星巌(やながわせいがん)・紅蘭(こうらん)らの夫婦旅との違い
江戸後期には、文人夫婦の連れ旅も存在した。たとえば梁川星巌・紅蘭の長期逗留の記録は有名だ。制度化された「新婚旅行」(明治後期以降に定着)と、実態としての夫婦旅(江戸~幕末)の線引きを行うと、霧島行は「湯治を兼ねた夫婦の療養旅行」であり、“日本初”は物語化の産物と整理するのが慎重である。
時系列で整理:寺田屋襲撃→薩摩の庇護→霧島行
1866年初頭、京都の寺田屋で襲撃を受けた龍馬は重傷を負う。お龍の機転で危機を脱し、薩摩藩邸にかくまわれたのち、西郷隆盛・小松帯刀の勧めで霧島へ向かう。政治交渉が錯綜(さくそう)する京から距離を取り、保護下での養生と情勢把握を両立させる合理的判断だった。
西郷・小松の勧めと移動ルートの背景
薩摩側には、志士の安全確保と連携強化という思惑があった。海路・陸路を繋ぎ、城下から山麓へ至る低リスクの移動線を確保。塩浸温泉は創傷快復に適すると評判で、登山・参拝も含めて心身の回復プログラムとして設計されていた可能性が高い。
観光ガイド補足:現地で見られる場所・碑・資料館
霧島は史跡と自然が重なる「歴史×療養」の舞台だ。史実の理解に資する見どころを整理する。
塩浸温泉龍馬公園と霧島神宮の見どころ
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塩浸温泉龍馬公園:逗留碑(とうりゅうひ)や展示で二人の行程を学べる。温泉施設では当時の湯治文化にも触れられる。
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霧島神宮:参拝の伝承が残る社域(しゃいき)。周辺の社叢(しゃそう)と火山地形のコントラストが印象的。
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高千穂峰:登山口~山頂は天候急変に注意。山頂の天逆鉾(あまのさかほこ)伝承は、神話と史跡の境界を考える好材料となる。
ここから学べること(実務に効く2点)
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回復への投資は成果への近道。 仕事や創作のピーク・ボトムが激しい時ほど、計画的な養生が効く。龍馬は18日の逗留で体力と視野を整え、その後の行動へと繋げた。
短期の停止は、長期の前進のための戦略だ。 -
物語の力を借りつつ、一次史料で自分の頭で考える。 「日本初」の看板は魅力的だが、意思決定では事実→解釈→物語の順に検証する習慣が効く。
原典(手紙)を押さえ、研究とメディアの距離を測れば、情報に振り回されない。
今日から実践できるチェックリスト(2点)
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計画する: 今月中に「回復のための半日旅」を1回入れる(移動→入浴→散策→無目的の時間をセット)。手帳に日付を先に確保する。
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確かめる: 重要テーマについて、一次資料/学術解説/二次記事を各1本ずつ読む。結論が揺れたら、必ず一次に戻る。
まとめ
霧島の湯けむりの向こうに見えるのは、恋の美談(びだん)だけではない。乙女宛の絵入り書状に残った「湯に浸かり、魚を釣り、山を登る」具体性は、傷ついた人間が再び歩くための設計図だ。
のちに「日本初の新婚旅行」と呼ばれた旅は、ラベルを剥(は)がしてもなお、回復と伴走(パートナーシップ)の物語として力を放つ。
忙しさに削られたあなたの時間にも、少しだけ湯気を取り戻そう。
温まった心で、また一歩、現実を更新できる。
FAQ
Q1. 本当に18日間滞在したの?
A. 現地公的資料に「18日間滞在」と明記があり、手紙の遊興・登山描写とも整合する。
Q2. 旅の一次史料は?
A. 慶応二年十二月四日付・坂本乙女宛書状(京都国立博物館蔵)。霧島登山図を含み、行程の核心情報を与える。
Q3. なぜ「日本初」と言われるの?
A. 近代以降のメディアと観光言説が定着させた。研究的には「湯治を兼ねた夫婦旅」の一次証言が核。
Q4. 誰の勧めで霧島に?
A. 西郷隆盛・小松帯刀の薦(すす)めによる薩摩の庇護下の養生、という整理が通説である。
Sources(タイトル&リンク)
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京都国立博物館「坂本龍馬関係書状(慶応二年十二月四日・坂本乙女あて)」
https://www.kyohaku.go.jp/ -
霧島市公式「龍馬・お龍 日本最初の新婚旅行地(塩浸温泉龍馬公園)」
https://www.city-kirishima.jp/ -
鹿児島県広報・観光情報「明治維新と鹿児島:特集『坂本龍馬』」
https://www.pref.kagoshima.jp/ -
レファレンス協同データベース(国立国会図書館)「坂本龍馬が、妻・お龍と霧島に旅行したときに書いた手紙」
https://crd.ndl.go.jp/ -
和樂web「日本初のハネムーンは坂本龍馬じゃない? 梁川星巌&紅蘭の夫婦旅」
https://intojapanwaraku.com/
注意・免責
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本稿は上掲の一次史料・公的資料・研究知見を整理し、引用は要約のうえ出典を明記しています。
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年号は原則として史料表記(慶応二年等)を用いました。旧暦→新暦換算には幅があるため、不必要な断定は避けています。
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「日本初」の表現は観光・メディア慣用を含みます。研究上は「湯治を兼ねた夫婦旅の一次証言」が確認できる、という立場を採ります。
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