坂本龍馬はなぜ土佐を脱藩したのか――梼原から韮ヶ峠へ、決断の三日間

幕末の港町を背景にした木造の建物や帆船を思わせる情景。 0001-坂本龍馬

夜明け前、高知城下。山の端が白み、川霧がほどけていく。若武士は家族に「吉野の桜を見に行く」とだけ告げ、刀を収めた小さな包みを背に、南の路地を抜けた。境内の灯(あか)りが揺れる和霊神社(われいじんじゃ)で一礼し、水杯を傾けると、彼は振り返らなかった

――その名は、坂本龍馬。

文久二年三月二十四日、土佐脱藩(だっぱん)の朝である。やがて彼は梼原(ゆすはら)から峠を越え、伊予へ消える。ここから「倒幕」の物語が、音を立てて動き出した。

この三日間に何があり、なぜ彼は国境を越えねばならなかったのか。物語の手触りと史料の硬さ、両方でたどる。

結論と概要:土佐脱藩の三日間

結論:龍馬は文久2年(1862)3月24日に高知を出奔、25日に梼原に宿泊、26日に那須俊平・信吾父子の案内で宮野々番所・松ヶ峠番所を抜け、韮ヶ峠(にらがとうげ)を越えて伊予(愛媛)へ脱藩した。同行は沢村惣之丞(そうのじょう)。

この行程は梼原町観光協会と高知市「龍馬の生まれたまち記念館」の案内により確証される。(yusuhara-kumonoue-kanko.jp, ryoma-hometown.com)

脱藩ルートと地図:梼原から韮ヶ峠へ

シーン:杉木立の匂い。早春の霜がまだ残る山道を、三人は寡黙に進む。番所(ばんしょ)の手前で息を整え、草鞋(わらじ)の緒を確かめる。峠の風は冷たいが、頬に刺さる痛みが覚悟を研ぎ澄ます。

史実:行程は〈高知城下→和霊神社→梼原宿泊→宮野々番所→松ヶ峠番所→韮ヶ峠→伊予〉。26日に国境を越えた後、小屋村・水ヶ峠・泉ヶ峠を経て宿間村に至り、のち長浜から船で長州へ向かったと伝わる。(yusuhara-kumonoue-kanko.jp)
和霊神社参拝と「桜を見に行く」という出立の言葉は、高知市の公式ガイドでも紹介されている。(ryoma-hometown.com)

なぜ脱藩したのか:三つの理由

シーン:「国はこのままでえいがか?」――城下の夜、友と交わした低い声。上士(じょうし)と郷士(ごうし)の壁、攘夷(じょうい)の熱、黒船の衝撃。龍馬の胸で、旧い秩序と新しい海図がぶつかり合う。

史実整理

  1. 身分秩序の閉塞:土佐藩は上士と下士(郷士を含む)の身分差が厳格で、郷士出身の龍馬にとって政治・軍事の中枢は遠かった。(ryoma-den.com)

  2. 海防・開国志向:江戸での見聞以来、海軍・交易による国是改革への志向が強く、藩内の尊王攘夷一本槍と距離があった。のちに勝海舟(かつかいしゅう)のもとで学ぶ素地となる。(ryoma-kinenkan.jp)

  3. 行動圏拡大の必要:藩許可を前提とする往来では、対外・対藩連携が制約される。脱藩はネットワーク拡張のための“旅券代わり”でもあった(当時の脱藩=無手形出国に相当)。(ryoma-kinenkan.jp)

同行者と現地支援:沢村惣之丞・那須俊平/信吾

シーン:梼原の一軒に灯がともる。槍の達人と名高い父・俊平(しゅんぺい)と、健脚で知られる信吾(しんご)。「ここからはわしらの道じゃ」。頼るべきは地の人と道の記憶だった。

史実:脱藩同行は沢村惣之丞。梼原では那須俊平・信吾父子が韮ヶ峠まで道案内し、地域史・観光史料でも定説である。信吾はその後、吉田東洋暗殺・天誅組の挙兵へ歩を進め、幕末史の局面に現れる。(yusuhara-kumonoue-kanko.jp, こうち旅ネット)

時代背景:勤王と公議、圧力と反動のうねり

シーン:京から届く激報。江戸の海の向こうからは大砲の轟き。城下では勤王を唱える若者たちが熱を帯び、やがて取り締まりの網が張られていく。

史実:文久・元治期の土佐では勤王運動の高揚と弾圧が交錯。政治犯化の過程や取り締まり強化は研究論文で分析されている。龍馬の脱藩は、このうねりの初期局面に位置する。(京都産業大学学術リポジトリ)

赦免(しゃめん)から海援隊(かいえんたい)へ:脱藩の先に開けた道

シーン:長崎・出島の風に塩の匂い。蒸気船の汽笛が響く。龍馬は交易と航海を学び、海を媒介に藩と藩、人と人を結び始める。

史実:亀山社中は慶応3年(1867)に土佐藩配下の海援隊となり、同年に龍馬の脱藩罪が解かれている(後藤象二郎らの関与)。(長崎市公式観光サイト[travel nagasaki], ryoma-den.com)

勝海舟との出会い:暗殺未遂か、紹介状か(異説)

シーン:赤坂氷川坂。大身旗本の屋敷を前に、若者は躊躇する――「斬るためか、学ぶためか」。
史実:勝海舟の回想録『氷川清話』には「龍馬はおれを殺しにきた」との逸話が見える一方、福井前藩主松平春嶽(まつだいらしゅんがく)の回顧録系史料では紹介状を渡したとする。史料間で叙述が異なるため、「劇的逸話」と「実務的面会」の両説を併記せざるを得ない。(ryoma-kinenkan.jp)

なぜその結末に至ったのか:選択の分岐を読み解く

物語的展開:残るか、出るか。郷士(ごうし)として藩内改革に踏みとどまる道もあった。だが、龍馬は「海」を選んだ。峠を越えれば、藩籍も身分もいったん外れる。失う保障は大きいが、得られる自由は計り知れない。

分析

  • 内在的要因:身分秩序の壁×海防・交易志向。(ryoma-den.com, ryoma-kinenkan.jp)

  • 外在的要因:京・江戸の政局流動化、長州・薩摩の台頭、海外情報の洪水。行動半径を拡げることが価値そのものになった。

  • 結果:脱藩=政治的・経済的ネットワークの再設計。のちの薩長連携や海援隊の活動は、この意思決定の帰結線上にある。(長崎市公式観光サイト[travel nagasaki])

異説・論争点

  • 出奔後の直行先:長州→薩摩方面と伝わるが、細部は「定かでない」とする館資料の注記がある。(ryoma-kinenkan.jp)

  • 赤坂対面の性格:暗殺未遂(氷川清話)vs 紹介状(春嶽回顧)で史料差。政治的自己演出/伝記的脚色の可能性にも留保が要る。(ryoma-kinenkan.jp)

ここから学べること(実務に効く2点)

  1. 「越境」によって選択肢を増やす
     龍馬は“身分というKPI”を手放し、行動圏(ネットワークKPI)を取りにいった。専門や部署の枠を一度外れて外部の言語・人脈・制度に触れると、意思決定の評価軸が増える。
    たとえば社内調整が行き詰まった時、他部署の定例に1か月同席して課題の言語化をやり直す――これも現代の「脱藩」である。

  2. 地元の“道案内”を見つける
     龍馬の峠越えは、那須父子というローカルな専門家なしに成立しない。
    新規市場や未知領域に入るときは、現地の“那須”を3名確保(実務・制度・文化)。最初の1週間は聞く側に回り、地図と足の両方を借りる。結果、迂回に見えて最短になる。

今日から実践できるチェックリスト(2点)

  • 動く:今週、所属外の定例/勉強会/コミュニティに1つ参加申請する。越境の小さな一歩が、意思決定の射程を伸ばす。
    自信がなくても大丈夫、越境は“最初のノック”から始まる。

  • 頼る:今月、挑戦中のテーマで現地の案内役(社内外)を3人書き出す。1人に15分のヒアリング依頼を送る。
    人に頼ることは弱さではない。龍馬だって峠は一人で越えていない。

まとめ

三月の薄明に始まった小さな嘘――「桜を見に行く」。だがその嘘は、古い身分の壁と新しい海の地図をつなぐための、静かな決意表明だった。

梼原の宿、韮ヶ峠の風、那須父子の背。三日間の「出る」という選択は、海援隊という仕組みを生み、のちの連携と変革を呼び込む。

私たちもまた、日々の峠を越える旅人だ。怖さを抱えていい。越境の一歩を踏み出した者だけに見える景色が、必ずある。

FAQ

Sources(タイトル&リンク)

注意・免責

  • 本記事は上掲の一次・準一次資料、自治体・公的館資料、学術論文等に基づき執筆しましたが、幕末期の史料には回想・伝承由来の不確実性を含む箇所があります。異説は可能な範囲で併記しました。記載内容のうち政策判断や旅行・登山の安全に関わる事項は、最新の公的情報で再確認してください。

――この三日間の物語が、誰かの“越境の一歩”をそっと押す灯になりますように。

 

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