織田信長の肖像画は別人か|三宝寺“写真”と長興寺・神戸像を一次史料で検証

織田信長の肖像画が別人かどうかを象徴する、異なる3枚の額縁絵のイメージ 0002-織田信長

夜の堂内。灯明が一枚の“顔”を照らし出す。鋭い眼差し、整った鼻梁、わずかに結ばれた口元

――「これが、本当の信長なのか」。

山形・天童の三宝寺(さんぽうじ)に伝わる“肖像(しょうぞう)写真”を前に、人は息を呑む。同時に胸の奥でざわめく疑問

――「織田信長の肖像画は別人なのか」。

本稿は、この問いに史料で向き合い、三宝寺の“写真”と1583年制作の基準遺像(いぞう)を突き合わせて、最も妥当な見取り図を描く。


信長の肖像画は別人か:結論の要点(一次史料優先)

  • 結論(暫定):現時点で本人像に最も近い基準は、天正11年(1583)に制作された長興寺本(狩野元秀〔かのう もとひで〕伝)・神戸市立博物館本(古溪宗陳〔こけい そうちん〕賛〔さん〕)・大徳寺総見院(そうけんいん)の木造坐像の三点群。制作年・目的・由緒(ゆいしょ)が明確で一次性が高い。(文化遺産オンライン, kobecitymuseum.jp)

  • 三宝寺“写真”は原画不在かつ明治中期の複写物で、由来は「宣教師が描いたといわれる」という伝承レベルにとどまる。断定(真作/別人)の可否は留保が妥当。(city.tendo.yamagata.jp)

つまり「別人か」の最短回答は、“三宝寺像だけでは決められない。1583年制作群を基準に考える”である。


三宝寺“写真”の由来と課題(原画不在・明治複写)

大武写真館印と伝承の範囲

三宝寺の仰徳殿(こうとくでん)正面に掲げられるのは、原画を明治中頃に宮中写真師・大武丈夫(おおたけ たけお/大武写真館)*が複写した“写真”である――と天童市公式資料が説明する。ここでの鍵語は「といわれる」「複写」だ。原画は現存せず、現在目にするのは写真媒体に過ぎない。(city.tendo.yamagata.jp)

*地域資料・論考では、写真裏の「大武写真館」印への言及があるが、一次公文書での断定ではない点に注意したい。(shouzou.com)

ニコラオ関与説の検討(未決・私説の域)

「三宝寺の原画はジョヴァンニ・ニコラオ(16世紀の宣教師)が描き、のちに複写された」という仮説が流布している。しかし、筆者・制作年・伝来を一次史料で裏づける決定的証拠は公表されていない。

肯定・否定とも未決であり、三宝寺側の公的説明も“宣教師が描いたといわれる”という伝承の紹介を超えていない。ゆえに断定的な評価は避けるのが学術的態度である。(city.tendo.yamagata.jp, shouzou.com)

ここで重要なのは「魅力的な物語ほど、証拠のハードルを上げる」こと。伝承を尊重しつつ、判断は保留――これが最も安全だ。


1583年制作の基準遺像(長興寺・神戸・総見院)

  • 長興寺本(豊田市・重文)狩野元秀筆と伝わり、桃山時代制作。指定・所蔵情報が整う。(文化遺産オンライン)

  • 神戸市立博物館本:画面上部の古溪宗陳の賛から、天正11年(1583)信長一周忌のための制作が判明。束帯(そくたい)像としての性格も明快。(kobecitymuseum.jp)

  • 総見院・木造坐像(重文)像底墨書天正11年(1583)五月吉日・康清作とあり、一周忌供養の具体像を示す。(文化遺産オンライン)

公的データが示す制作目的と年記

三点はいずれも1582年(天正10)本能寺の翌年に集中制作され、追慕・顕彰という同一目的を共有する。制作時の年記・賛・銘文といった検証可能な物証に支えられており、本人像推定の“基準座標”として妥当である。(kobecitymuseum.jp, 文化遺産オンライン)


日本美術史の「別人再同定」事例から学ぶ

「有名肖像が別人だった」再同定は、日本美術史で繰り返されてきた。

たとえば神護寺の“源頼朝像”は、足利直義像とする見解が学界で長年論争となっている。像主の入れ替わりは珍事ではない――この一般則は、信長像の判断にも“慎重さ”を促す。(Nippon)


まとめと実務に使えるチェックリスト

要点の再掲

  1. いま拠り所にすべきは1583年の基準遺像群(長興寺本・神戸本・総見院坐像)。年記・賛・銘という一次性が強い。(文化遺産オンライン, kobecitymuseum.jp)

  2. 三宝寺“写真”は原画不在。由来は伝承として伝わるが、真贋・像主の断定は未決結論留保が妥当。(city.tendo.yamagata.jp)

ここから学べること(ビジネス・生活に効く2点)

  • 一次情報に立ち返る:会議で意見が割れたら、発言者の好みよりデータの出所(誰が・いつ・なぜ)をそろえる。肖像は年記・賛・来歴(プロヴナンス)、仕事はソース・条件・測定法。根拠が並ぶと、議論は自然と収束する。

  • 物語と検証をセットにする:ロマンのある仮説ほど魅力的だ。だからこそ条件・反証可能性を点検する習慣を。耳ざわりの良い数値・画像・“実例”ほど、一呼吸おいて照合しよう。

今日から実践できるチェックリスト(2点)

  • 確かめる:共有・投稿前に、最低1件の公的データベース(博物館・文化庁)で事実確認をする。

  • 突き合わせる:魅力的な説に出会ったら、年月日・制作者・目的の三点セットを別ソースでクロスチェックする。――伝承を尊重し、判断は冷静に。


FAQ

Q1. もっとも“信頼できる”信長の顔は?
A. 1583年制作が裏づく長興寺本・神戸本・総見院木造坐像基準に据えるのが妥当です。(文化遺産オンライン, kobecitymuseum.jp)

Q2. 三宝寺“写真”は本物の信長?
A. 原画は現存せず明治中頃の複写写真のみが伝わります。宣教師制作というのは伝承で、現状では断定不能です。(city.tendo.yamagata.jp)

Q3. なぜ別人説が広がるの?
A. 来歴不詳や後世の付会が重なると像主が入れ替わることはあり得ます。頼朝像の再同定論争が示すとおり、慎重な史料批判が不可欠です。(Nippon)

 


Sources(タイトル&リンク)

  1. 文化遺産オンライン「紙本著色 織田信長像〈狩野元秀筆〉(長興寺)」(文化遺産オンライン)

  2. 神戸市立博物館コレクション「織田信長像(古溪宗陳賛・1583)」(kobecitymuseum.jp)

  3. 文化遺産オンライン「木造織田信長坐像(大徳寺総見院)」(文化遺産オンライン)

  4. 天童市公式サイト「天童織田藩のあらまし(織田信長肖像“写真”の由来)」(city.tendo.yamagata.jp)

  5. 天童市『市報てんどう』特集PDF「天童に息づく織田の歴史」(2025/2/1)(city.tendo.yamagata.jp)

  6. Nippon.com「源頼朝の肖像画:『教科書で見た頼朝像は別人』説を追った」(Nippon)
    (参考:地域資料の紹介として大武写真館印への言及を含む論考)肖像ドットコム該当ページ(私見・仮説を含む)(shouzou.com)


注意・免責

  • 本記事は公的データベース・所蔵館公式情報を最優先に参照し、地域資料・個人論考は論点紹介に限定しました。研究は進展し、展示図録・修理報告・調査報告により結論が更新される可能性があります。最新情報は各所蔵館・文化財データベースをご確認ください。

  • 画像の権利は各所蔵者に帰属します。転載・二次利用は所蔵館の条件に従ってください。

伝承を愛し、証拠で語る。 その一呼吸が、歴史の見え方を鮮やかに変えてくれます。

 

――次に読むべき関連記事

織田信長の記録上の初戦「赤塚の戦い」―十九歳の初勝負と揺れる年号

タイトルとURLをコピーしました