山肌を撫でる風が石垣の継ぎ目で鳴り、夕陽が稜線(りょうせん)を朱に染める。戦国の旅人になったつもりで見上げれば、そこにあるのは単なる砦ではない。
普請(ふしん)・政(まつりごと)・商い・儀礼(ぎれい)、あらゆる機能を束ねる“装置”
——織田信長の城だ。
本稿では「織田信長が建てた城一覧」を、物語的な情景→一次史料にもとづく解説の二段構えで整理する。
信長が自ら築いた城・御所(小牧山/安土/旧二条城・二条御新造)
小牧山城(愛知県小牧市)—1563年築、攻勢拠点と城下町の実験場
霧の朝、小高い独立丘に立つ若き信長は美濃の稜線を睨(にら)む。ここから攻め上がる——。
-
史実要約:永禄6年(1563)築。山頂に主郭、山麓に居館・城下町を計画的に配置。発掘で大規模石垣・段状造成・道路網が確認され、「一時的な砦」像は修正。居城は1563〜1567年(約4年)。
-
意味:美濃攻略の前線基地にして、「城郭+都市」モデルの試作。
安土城(滋賀県近江八幡市)—1576年着工、1579年天主完成
松明の列が石段を上り、天主台に月がかかる。豪壮な天主は権威の劇場だった。
-
史実要約:天正4年(1576)着工、同7年(1579)天主完成。山頂の天主と山麓の御殿群・城下町を一体化した近世城郭の原型。特別史跡指定。
-
意味:「軍事・政庁・宗教・文化」を統合した、“見せる政治”の舞台。
將軍義昭の武家御城(京都・旧二条城)—1569年、信長が主導造営
冬空の都に、土木人夫の掛け声が響く。新将軍の権威を可視化する城郭を、信長は短期で築かせた。
-
史実要約:永禄12年(1569)、勘解由小路室町に堀・石垣・櫓(やぐら)を備えた「武家御城」を造営。将軍足利義昭の御所兼城郭。のち義昭追放で役割を終える。
-
意味:京都支配の合法性と軍事的抑えを兼ねる“政治装置”。
二条御新造(下御所)—1576〜1577年、信長の京都政庁
変の夜明け前、信忠が駆け込んだのはここだった。
-
史実要約:二条家跡に信長が築いた城郭機能をもつ屋敷=政庁。旧二条城(義昭の武家御城)と別施設。本能寺の変では信忠が籠城。
-
意味:儀礼・外交・軍事を束ねる“首都機能”の核。
信長が家臣に築かせた城(坂本/長浜/大溝)
坂本城(滋賀県大津市)—1571年以降、明智光秀に命じて築城
比叡山の南麓、琵琶湖に面した“湖城”。
-
史実要約:延暦寺焼き討ち後の近江統治拠点。湖上交通と京都口を押さえる。宣教師フロイスも壮麗さを記述。
-
意味:水運=補給線を握る“物流の城”。
長浜城(滋賀県長浜市)—1574年頃、羽柴秀吉に命じて築城
朝靄(もや)の湖面を商船が行き交い、城下は“市(いち)”で賑わう。
-
史実要約:浅井旧領統治の核。今浜を「長浜」に改称し城下町を整備。湖北の要衝として発展。
-
意味:軍事と商業のハブとしての城郭。
大溝城(滋賀県高島市)—1578年、織田信澄に命じて築城
乙女ヶ池と運河が堀の役割を果たす“水城”。
-
史実要約:湖岸ラインを結節する拠点で、水際の防御と舟運を両立。
-
意味:湖岸ネットワークの要石。
岐阜城は「築城」ではなく大改修—城下と居館の実像
稲葉山を制して名を「岐阜」に改めた夜、城下では新しい道筋が引かれた。
-
史実要約:元は斎藤氏の稲葉山城。永禄10年(1567)攻略後、改名・山麓居館整備・楽市令など都市政策を推進。
-
位置づけ:築城主ではないが、戦略要塞+城下都市の運用モデルを磨いた。
伝承と論争:墨俣一夜城/清須城の普請
-
墨俣一夜城:秀吉の“一夜築城”伝承は著名だが、確証的な一次史料は乏しい。実像は陣城・築堤など段階的整備とみる見解が有力。
-
清須城の普請:信長期の整備も想定されるが、大規模化は信雄期の色が濃い。ここでは「信長が建てた城」一覧からは外す。
時代背景(情景→解説)
夜の琵琶湖に篝火(かがりび)が揺れ、船影が京へ向かう。信長は湖上輸送と街道を一本の線で結び、そこに点=城を打った。
-
要点:京・近江・美濃を貫く“水運×街道ネットワーク”の掌握。
-
政策連動:楽市令・検地の先駆・地名改称などで統治の可視化。城は軍事・政治・経済・文化を束ねる結節点だった。
なぜその結末に至ったのか(選択肢→分析)
-
A:山城の強化(小牧山/稲葉山)…短期の攻勢に有効だが都市機能が弱い。
-
B:湖城・平山城の連鎖(坂本/長浜/大溝)…補給線を太くし、軍需と流通を両立。
-
C:政庁型施設(二条御新造)…儀礼と外交を可視化し、同盟・朝廷工作のコストを下げる。
→ 結論:信長はAで前線を押し上げ、Bで補給を安定させ、Cで正統性を演出。その頂点に安土城を置き、京都=政庁/安土=統合中枢という二層構造を作った。
異説・論争点
-
「旧二条城」と「二条御新造」の混同:別施設。信忠が最期を迎えたのは二条御新造が有力。
-
墨俣“一夜”の可否:物語性は高いが、一夜築城の実証は弱い。
-
清須城の改修主体:大改修は信雄期が顕著とする見解。
ここから学べること(現代に効く2点)
-
拠点を“点”ではなく“線”で最適化する
信長は城(点)を水運・街道(線)で束ねた。現代でも、在庫・物流・広告・顧客対応を共通KPIでつなげば探索と実行の往復が速くなる。たとえばECなら「入荷→出荷→CV→CS」の日次ダッシュボードを1枚化し、ボトルネックを可視化する。 -
“象徴投資”で交渉力を高める
安土や二条御新造はコストではなく“権威を設計する投資”。企業ならフラッグシップ店舗・年次イベント・透明な意思決定の場がそれに当たる。見せる場は取引コストを下げ、協力者を増やす。
今日から実践できるチェックリスト(2点)
-
可視化する:自社(自分)の主要3拠点を地図化し、点→線→面の順に整える。まずは共通KPIを1枚に。迷ったら「今日できる最小の可視化」を5分で着手。
-
象徴を設計する:月1回の“儀式”(公開ミーティングや顧客感謝配信)を決め、成果の見える化を習慣化。自信が薄い時ほど、小さな成功の掲示が背中を押す。
まとめ
「信長が建てた城一覧」は、単なる史跡カタログではない。
小牧山で“攻めの足場”を作り、湖岸の城々で補給線を太くし、二条御新造で政治を可視化し、安土で統合した。
地図にピンを置けば一本の線が浮かぶ。その線は、未来を先取りする設計図だ。
もし本稿があなたの“次の一手”を描く助けになったなら、同じ地図を必要とする誰かにそっと届けてほしい。
FAQ
Q1. 織田信長が“自ら”築いたと確実に言える城は?
A. 小牧山城(1563)と安土城(1576〜79)。京都では二条御新造を主導造営。将軍の武家御城(旧二条城)は信長主導の造営だが、性格は“将軍御所兼城郭”。
Q2. 岐阜城は信長が建てたの?
A. もとは稲葉山城で築城主は斎藤氏。信長は1567年に攻略→改名・大改修・城下整備を実施。築城主ではない点に留意。
Q3. なぜ湖岸に城を並べた?
A. 水運(補給)と京口の抑えを兼ねるため。坂本・長浜・大溝は物流と軍事の結節点。
Q4. 墨俣一夜城は本当に“一夜”で建った?
A. 一夜築城を裏づける確証的な一次史料は乏しく、臨時の陣城・築堤とみる説が有力。
Sources
-
小牧市「史跡小牧山・れきしるこまき」:小牧山城の発掘成果と城下町跡
-
文化庁・文化遺産オンライン「特別史跡 安土城跡」
-
滋賀県「特別史跡安土城跡 整備基本計画」
-
京都市埋蔵文化財研究所「将軍義昭の武家御城と織田信長の二条新造御所」
-
岐阜市「国史跡 岐阜城跡の概要」/文化庁「岐阜城跡」
-
滋賀県教育委員会「信長の城と戦国近江」(近江の城郭ネットワーク解説)
-
高島市公式「大溝城跡」
-
清須市公式「清須城」
-
長浜市・長浜城歴史博物館の案内資料
-
大津市・坂本城跡に関する案内板・市史資料
注意・免責
-
本記事は公的機関・文化財DB・自治体資料・学術リーフレット等を一次参照し、要約・再構成したものです。引用は要点の紹介に留め、原典の文言を長文で転載していません。
-
年代・用語は諸説ある場合、本文で主流説と異説を明記しました。現地見学・研究に際しては、各機関の最新公表資料をご確認ください。
-
本稿では当時の概念に沿い、堀・石垣・防衛性を備えた政庁(例:二条御新造)も便宜上「城郭系施設」として扱っています。
-
史跡の位置・公開情報は変更されることがあります。訪問の際は自治体・施設の最新案内をご確認ください。
――次に読むべき関連記事